思うところありて・・・

人の心、恋愛について考えてみた。

『ただ好きだから一緒にいたい。』

上記の様な気持ちは恋愛の根幹たる想いであることに間違いはないだろう。
ただし、社会に適応し現代の社会生活を真っ当する者なら稚拙なのかもしれない。
十代の恋愛においては『好き』には何もついてこない。逆に『好き』だけで十分なのだと思う。

しかし、良くも悪くも一度社会システムに組みまれた者ならばそうはいかない。
そこには責任と義務、将来への夢や不安。そういったものが密接関係してくるのである。

自分には自分の他者には他者のアイデンティティーが存在し、それを尊重しなければそこに良質な関係は築けない。
恋愛において1対1であるが故により尊重ということに重みがます。
どうすれば尊重していけるのか?
お互いを理解していこうとすること。

しかし、理解には誤解がつきものである。
ここで1つ引用。

『理解とは誤解の総体である』

これは村上春樹氏が自身の著書『スプートニクの恋人』で記したものであるが正しくその通りである。
スプートニクの恋人 (講談社文庫)

誤解には悲しみや苦しみなどが伴う事も多い。
それこそが人と人との繋がりにおける最大のテーマなのではないだろうか。

自己を理解し他者を理解し、その積み重ねこそが理想。
しかし、実際には自己を誤解し他者を誤解する
その摺り合わせのズレが痛みであり、悲しみである
ただ好きなだけなのに?

頭では理解をしても心がついて来ない・・・
人は悲しみなくして生きていけない生き物なだろう。

ふと思う。
愛とは喜びや愛しさ、そして悲しみや苦しみを含むものなのである。

ひとつテーゼ。
『愛とは喜びや愛しさ、悲しみや苦しみを内在するものである』

分かっているのだがこう定義してみると普段は忘れていることに気付く。
どんなに清らかでどんなに純粋な想いにも痛みはついてくる。

人はそれこそを忘れてはならないのではないだろうか。
そして大人になるということはその事に耐えうる心の強さの得ることではないだろうか。

愛には痛みがついてくる。
そして結論。
『痛みの中にこそ愛がある』

いささか極端ではあるが真実の形の1つである。

たまに哲学的に思考するもの悪くない。